おくすり千一夜 第四十一話 二十一世紀では制酸剤は何が適当か
制酸剤とは胃酸を中和するアルカリ性のお薬です。制酸剤は軽い胃の変調だけでなく胃潰瘍にもプラセボー効果があるので、医師ですらこれに惑わされて使い方を間違えたり、必要な時に適切な量が使われない場合があると言われるお薬です。そこで制酸剤の基礎的な性質について正確に解説してみましょう。
制酸剤は胃酸を中和する速さと量によって比較され、試料の水素イオン濃度(pH)を15分間にわたって3.5に維持するのに必要な1規定の塩酸(1N・HCl)の量として定義されます。時間制限があるのは胃に制酸剤が滞留している時間を考慮したもので、あまり長いと中和することの意味がなくなるからです。
制酸剤として使われるお薬は塩類で、陰イオンには炭酸塩、重炭酸塩、クエン酸塩、リン酸塩およびケイ酸塩があり、陽イオンにはナトリウム、アルミニウム、マグネシウムがあります。もっともよく使われるのは、水酸化物で、アルミニウムとマグネシウムの水酸化物が繁用されております。ナトリウムやカリウムの水酸化物はアルカリ性が強く、お薬になりません。
水酸化マグネシウム(Mg(OH)2)は水に溶けにくく、遊離する水酸イオン(0H–)濃度はきわめて低く、粘膜を腐食せず、水素イオン(H+)とよく反応します。すなわち、水酸化マグネシウムはもっとも速く胃酸と反応する不溶性の制酸剤です。
マグネシウム塩類には他に炭酸塩とケイ酸塩があります。炭酸塩は水酸化物より水に溶けますが、結晶は酸と反応しにくく、ケイ酸塩は水を吸って水和物となり、水に不溶になるので、どちらも有効な制酸剤とはいえません。
水酸化アルミニウム(Al(OH)3)もまた非常に溶解しにくく、酸の中和速度はマグネシウム塩より遅く化学構造が複雑で、水素イオン濃度を4.5以上に保てず、食物中のリン酸と結合して不溶性の塩を形成します。
制酸剤の中和能は食物によって2時間ほど延長されますが、胃が空の時は、30分で排泄されてしまします。 水酸化アルミニウムが胃酸を中和する速度は、胃内容排出時間に比べ非常に遅いので、空腹時の胃酸ですら中和することはできません。 水酸化アルミニウムは服用量に比例して便秘を起こします。これは特に高齢者で顕著です。 水酸化マグネシウム と水酸化アルミニウムを併用すれば速効性と持続性とが期待でき、前者には瀉下作用が、後者には止瀉作用のあることから、両者の1:2の混合物が副作用をおさえた制酸剤として欧米では繁用されております。
ここで胃の生理学についてお話ししましょう。食物が胃に入ると胃液と共にタンパクを分解するペプシンが分泌されます。ペプシンの活性は胃液の酸性が強い、水素イオン濃度の低い値から5になるまで上昇し、中性の7に近ずくと活性がなくなります。水素イオン濃度3以上だと水酸化アルミニウムの粒子はペプシンを吸着し、ペプシンの作用を抑えます。
制酸剤を服用すると胃の幽門部の水素イオン濃度が上昇し、中性に近づくとガストリンというホルモンが分泌され、それが胃酸とペプシンの分泌を誘発します。健常人は制酸剤を服用してもあまり影響を受けませんが、十二指腸潰瘍の患者さんが重曹を飲むと、胃酸とペプシンの分泌が極めて盛んになり、水素イオン濃度を5.5以上に維持すると酸分泌は2倍になるそうです。
我が国では未だに重曹が制酸剤として使われておりますが、アメリカやヨーロッパでは制酸の目的では使われておりません。
胃の消化運動に対してアルミニウムは、胃内容物の排出を遅らせる働きがあり、この効果はマグネシウムで弱められるため、 水酸化アルミニウムと水酸化マグネシウムを併用すれば胃内容排出時間は影響を受けにくいと考えられております。
腸に対してもマグネシウムには瀉下作用が、アルミニウムには止瀉作用のあることから両者の合剤が繁用されてまいりました。効果については勿論個人差があって理屈通りには行きません。
制酸剤は体の内の恒常性を保つ酸-塩基平衡に影響を及ぼし、体液がアルカリに傾く一過性のアルカローシスを起こします。普通は胃から分泌される胃酸は腸内に蓄えられているアルカリ成分(重曹)によって中和され、全身の酸-塩基平衡に影響を及ぼしませんが、制酸剤の投与で胃酸が中和されると、このサイクルが乱れてしまい、腸に内在する余った重曹は体内に移行しアルカローシスとなります。アルミニウムやマグネシウムを含む制酸剤は、重曹のようには吸収されず、腸管を通って糞便中に排泄されます。
食物中から摂取されるアルミニウムは、普通1日約10mgで、これの0.1%が体内に吸収されます。制酸剤を服用すると、この量はかなり増加し、食事内容にもよりますが1日約0.1~0.5mgのアルミニウムが吸収されることになります。腎機能の正常な人は血漿中のアルミニウム濃度は2倍程度で済みますが、腎不全の患者さんではこれがが大きく上昇し、毒性が発現いたします。
アルミニウムを含む制酸剤は、ときに重篤な低リン酸血症を発症しますが、健常人ではこのような有害作用は認められません。一般に制酸剤を慢然と使用すると、腎結石ができやすくなるそうです。
腎障害のある人では、アルミニウム制酸剤を長期間服用したり、透析あるいは点滴に使用した溶液中のアルミニウムが原因で、骨ジストロフィーや近位性筋症、および脳症を発症したりします。脳症に関しては痴呆あるいは発作が現れます。アルミニウム中毒に関しては多くの文献や総説があります。アルミを扱っている日本軽金属協会は、アルツハイマー痴呆と腎不全に伴う「透析痴呆」とは別の疾患であるとの見解を表明しております。痴呆は癌と同様罹りたくない病気の一つです。
一方の水酸化マグネシウムではどうでしょう。常用量を長期間服用しても、腎機能の正常な人では血漿中のマグネシウム濃度は殆ど上昇いたしません。排泄は主として腎臓で行われるので、腎不全の患者では血中濃度が中毒量に達する場合もありますが、アルミニウム脳症のような重篤な疾患を誘発することは報告されておりません。
以上、制酸剤の物性から始まって生理・薬理・副作用までを解説してきました。重篤な胃潰瘍にはH2ブロッカーや更に強力なプロトンポンプ・インヒビターが開発されております。重曹を服用すればリバウンド(反動)で、返って胃の調子を悪くしてしまいます。軽い胃の障害にアルミニウム製剤の服用を奨めることは、消費者をボケの危険に曝らすことになるのです。
いま日本には一千四百万人、7人に1人が糖尿病とその予備軍です。この人達はどんなに健康管理が行き届いていても、病状が次第に悪化し、十年、二十年後には血管が脆くなってやがて目や腎臓が悪くなることは確実です。腎不全予備軍である糖尿病の患者さんにアルミニウムの入った制酸剤は差し上げられません。いま、腎透析の患者さん一人に年間二千万円の医療費が必要です。この患者さんがぼけたら、介護に莫大な経費がかかります。、最近H2ブロッカーがOTC薬として承認されたのはその対策の一つと考えられます。
当面、制酸剤は水酸化マグネシウムをうまく使うしかないことがお分かり頂けたと思います。