おくすり千一夜 第四十七話 アミロイド蛋白は善玉か悪玉か

二十一世紀は超高齢化社会と言われております。頭も体も元気な高齢者は問題ありませんが、痴呆の症状が出た高齢者のいるご家庭は大変です。統計に依りますと、八十歳台で十人に一人はぼけるそうです。しかも男性より女性が多いそうです。ぼけの半分はアルツハイマー痴呆だそうで、この病気の特徴は、脳に「老人斑」という独特の縞模様ができ、これはβアミロイドという蛋白が重合して不溶性の物質になったものだそうです。

ですからβアミロイド蛋白はこれまで悪玉の元凶と考えられておりました。ところが、最近、アメリカとフランスの科学者が、重合していないアミロイド蛋白には、動物の記憶力を向上させる効果のあることを見つけました。この発見は、学習や記憶のメカニズムの解明に役立つだけでなく、アルツハイマー痴呆で、如何にして記憶力が損なわれて行くかを解く手がかりになると言われております。

こうなるとβアミロイド蛋白が記憶喪失の原因なのか、病気の進行に伴う単なる副産物なのか分からず、科学者の間では“ニワトリが先か、卵が先か”の議論と同様、大変混乱しておりました。そもそも低分子のβアミロイド蛋白が脳内に存在することは以前から知られていましたが、生理的な役割については全く解明されておりませんでした。

アメリカとフランスの科学者達はβアミロイド蛋白の機能について長年研究しており、一方では記憶を高める物質、即ち頭を良くする薬についても探索していて、たまたま悪玉と考えられていたアミロイドについて調べてみたそうです。

実験の内容を御紹介しましょう。先ずマウスの記憶力を標準テスト法を用いて分析しました。具体的には、異なる色をつけた通路を用意し、その上でマウスを走らせ、一つの通路だけに褒美の餌を置いてみました。またレバーを押した時だけ餌が与えられる学習テストを実施しました。最初のトレーニング終了後、或いは学習の前に、アミロイド蛋白を注射してみました。その結果、アミロイド蛋白を投与されたマウスは、何も投与されないマウスに比べて極めて良い成績を示したそうです。さらに、記憶喪失を起こすスコポラミンという薬物を投与されたマウスでは、スコポラミンの作用が打ち消されることが明らかになりました。科学者達は「この結果は、βアミロイドの機能を学習と記憶に関連づけた最初の成果であり、βアミロイドは非常に低濃度で効果があるので、何か極めて特異的な事が脳内で起こっているのだろう」と推測しております。

この研究は、アルツハイマーの患者だけでなく、単なる老化による記憶の低下や、若年性健忘症の治療にも新しい途を開くと考えられます。彼らが今進めているのは、抗痴呆のメカニズム解明で、それができればアミロイドと同じ作用を持つ別の物質を合成したり、脳におけるアミロイド合成を増やすことも夢ではないでしょう。他の研究者は「全く驚きだ。誰も考えもしなかった成果だ。」と絶賛しております。また「記憶増進の機構は謎だが実験の結果は間違いないだろう。ただし、脳に対する作用機序が分かるまで、治療に用いるのは差し控えるべきだ」としております。重合したβアミロイド蛋白を溶かす酵素が見つかれば、やはりアルツハイマー痴呆が治るのではと思われます。一方では人は高齢になったらある程度ぼけないと迫ってくる「死」の恐怖に耐えられないのではないかとも囁かれております。

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