おくすり千一夜 第六十六話 契約医療か恩恵の医療か

近頃、医療の現場で話題になっている言葉に「インフォームドコンセント」というのがあります。医師が治療を始めるに当たって、患者に手術や治療薬の内容について、よく知らせて了解してもらう、納得してもらうという意味です。

また「ペイシェントオリエンテット」という言葉もあります。薬学者や薬剤師の間で使われているもので、患者志向とか臨床志向と訳します。医療関係者は何を今更とお思いでしょうが、このお話は一般の方を対象にしているのです。

これまでは、インフォームドコンセントすることなく、コンセンサスを得ることなく医療行為が行なわれておりました。

昔は人の痛みや苦しみを和らげ、人を救うことが医療でした。赤ひげや、シュバイッアー博士を引用するまでもなく、医療は人類愛に基づいて行なわれてきました。欧米ではナースは神に使え、奉仕に明け暮れる修道院の尼さんでした。医療は慈善事業だったのです。その伝統の名残りから医師から「良いようにしてあげるから任せなさい」と言われたら、患者は「先生様、お願いします」という形で医療が施されて参りました。これが恩恵の医療です。

薬学の世界ではどうだったのでしょう。明治以前、医学は漢方が主流で、「薬師如来」は薬剤師の神様ではなく、漢方医の神様でした。明治以降、医療も西欧に追いつくために、薬の合成が奨励され、薬学では、有機系の講座が幅を利かせて現在に至りました。これを有機化学中華思想と言います。薬学イコール有機化学だったのです。薬剤師もようやく医療者の一員として認められ、創薬より患者の薬物治療を志向するようになり、これがペイシェントオリエンテットな薬学となり、薬剤師が薬局だけでなく病棟でも活躍する場が与えられたのです。従って病棟で活躍する薬剤師は薬のプロでなければなりません。厚生官僚から「タブレットカウンター」か「ちり紙売り」だと罵声を浴びせられた時代もありました。

さて、慈善事業だった医療は、現在は営利事業に変わってしまいました。他の産業に見られる営利行為と同様、利潤の追究が許されるのです。医療で利潤を追究する際には患者に必要以上の薬を飲ませたり、過剰な診療を行なったりする危険が常に伴います。その代わり、営利行為であれば、患者の希望するように回復しなかった時は、患者は泣き寝入りすることなく訴えることが出来ます。これが契約の医療です。

先進国アメリカでは治療の結果が契約通りでないとして患者から訴えられた医師は、三人に一人、或いは二人に一人と言われています。ですからアメリカでは、日本と違って医師になり手がなくなりつつあります。

我が国では今大学進学は医学部が最も難しく、日本中の英才が集まっているそうです。一方で理系離れが目立っております。若者が、赤ひげやシュバイッアーを夢見て医学部を志望しているのでしょうか。営利のためだったら誠に嘆かわしいことです。

研究の世界では人間の臓器を機械の一部品とみなし、これを交換する技術が臓器移植として進歩してまいりました。この考え方が進むと、個人の人格は大脳だけですから、首から下は交換可能と言うことになります。いや、もっと進歩したら個人を形成している全ての情報を他人の脳にインプットすることができたら、他人に乗り移ることだってできるはずです。昔読んだ「交霊術」を扱ったSF小説が現実味を帯びて来ました。やはり、原子と同様「パンドラの箱」は開けるべきではないのです。

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